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by misaki80sw

天安門事件から16年・・1989年6月4日

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天安門事件から16年、厳戒態勢で追悼活動封じ

 中国が民主化運動を武力弾圧した天安門事件から
 16年を迎えた4日、北京では、事件で失脚し、
 今年1月に死去した趙紫陽・元共産党総書記の追悼活動や、
 4月の反日デモのような民衆デモの封じ込めを目指す、
 中国当局が厳戒態勢を敷いた。

 事件の舞台となった天安門広場は4日、
 通常通り一般開放されたが、多数の私服警官が巡回し、
 不審者がいないか、目を光らせた。
 広場の周辺には、制服警官や警察車両が配備され、
 にらみをきかせた。

 民主化運動を武力弾圧した事件について、
 中国外務省の孔泉報道局長は2日の定例会見で
 「16年間の中国の発展が証明する通り、
 (政権の対応は)正しかった」と述べ、
 事件の評価見直しは行わない方針を改めて確認していた。

   (読売新聞)


今日は天安門事件を振り返り、
その経緯を時系列で解説しようかと思ったけど、
あれこれ資料を調べれば調べるほど
こいつは一筋縄でいくような
ヤワな事件ではないなと思いまして、
記述のスタイルをガラリと変えました。
雑談考察系スタイルで語ってみたいと思います。

何故、一筋縄じゃいかんと思ったかというと、

◇天安門に集まった民主派学生と群衆

◇武力弾圧した共産党

この2者を単純に「悲劇の民主派」と
「権力バリバリの共産党幹部」という対立図式で捉えると
あの事件の本質を見誤ると思いました。


天安門事件の簡単な経緯をまず載せておきます。

 1981年に中国共産党主席に就任した胡耀邦は、
 思想解放を掲げ、改革を推進したが、
 党内守旧派の反発を受け、1987年に失脚し、
 1989年4月15日急死した。

 胡耀邦の死を契機に、
 彼の名誉回復を求める学生たちは天安門広場に集まり、
 民主化要求を掲げ始めた。
 この年の5月4日は五四運動の70周年記念でもあり、
 全国からも学生が集まり始めるなど、
 民主化運動は盛り上がった。

 こうした民主化運動に対して、
 趙紫陽総書記が訪朝中の4月24日、
 党政治局は「反党・反社会主義の政治闘争」「動乱」と規定。
 鄧小平(中央軍事委主席)も同様の認識を示した。
 4月26日には人民日報が
 「旗幟鮮明に動乱に反対しよう」の社説を掲げる。
 この社説に反発した学生は十万人デモで応じた。

 折りしも5月15日から18日にかけて
 中ソ首脳会談のための
 ゴルバチョフソ連大統領の訪中が予定されており、
 ペレストロイカの旗手への期待も高まって
 民主化運動はいっそう膨れあがっていった。
 5月13日、天安門広場でハンストに突入。
 北京大学学生の王丹が宣言を読み上げた。
 広場からの撤退を求める当局と学生との対立の中で、
 事態打開を図ろうと知識人らによる、
 仲介工作も行われたが不調に終わった。

 こうした中で、ゴルバチョフが5月15日に訪中。
 天安門広場は連日100万人を越える学生や
 市民で埋め尽くされた。
 知識人もデモに大挙して参加、
 厳家祺は「独裁者は辞職せよ」と鄧小平打倒まで宣言した。
 
 5月18日には趙紫陽、李鵬が
 ハンストで入院中の学生を見舞った。
 2人は翌19日にも天安門広場を訪れ学生と対話したが、
 事態の打開には至らなかった。
 懸命に学生を説得する趙紫陽と
 渋面の李鵬の姿が対照的だった。
 
 5月20日、北京に戒厳令が敷かれた。
 戒厳令に抗議するため
 23日には100万人デモが敢行された。
 状況が緊迫する中で、
 24日には広場防衛指揮部が発足。
 総指揮は北京師範大学の女子院生だった柴玲が就いた。
 31日には美術大学の学生によって作られた、
 「民主の女神」も登場するなど
 広場での座り込みは続けられた。
 
 6月3日、
 人民解放軍の戒厳部隊が北京中心部へ進行開始。
 6月4日未明、武力鎮圧を開始。
 天安門広場周辺の長安街などでは
 軍と学生・市民が衝突する事態が発生、
 多くの犠牲者が出た。

 事件後、共産党は天安門事件を「反革命暴乱」と規定。
 趙紫陽は総書記を解任された。
 総書記の後任には事件に直接関与しなかった、
 上海市党委員会書記の江沢民が抜擢された。
 鄧小平の指示によるものだった。
 
 *現代中国ライブラリィ:
  天安門事件(6・4事件、第2次天安門事件)
・・参照


これが、ざっとした経緯です。

この中で、まず、共産党内部の動きを書いておきます。
2001年に流失した通称「天安門文書」という、
共産党の極秘内部文書があります。

以下、当時の産経新聞から。

☆天安門事件 首脳部の暗闘暴露 米国で書籍刊行
 議事録など生々しく

 一九八九年六月四日に中国・北京で起きた、
 天安門事件をめぐる当時の中国共産党首脳部の動きを
 会議の議事録や報告書、通話記録などの
 内部資料から再現したとされる書籍、
 『天安門文書』が八日、米国で刊行された。
 
 同書は、当時の最高実力者だった、
 トウ小平中央軍事委主席や、
 同氏を中心とした長老グループが、
 党政治局常務委員会の上に立つ形で
 五月二十日の戒厳令発令や六月四日の
 学生らに対する武力行使などを指揮、
 さらには戒厳令に強く反対した趙紫陽党総書記の失脚や、
 江沢民・上海市書記の後任総書記就任への
 道筋をつけたことを初めて明らかにしており、
 事件に対する評価などに影響を与えることになりそうだ。

  (産経新聞一月十日朝刊)

この文書は、発表当時かなり話題となりましたが
そこから共産党幹部の言動を抜粋します。

◎1989年5月13日
 趙紫陽と楊尚昆が鄧小平宅を訪問。

 ◇鄧小平中央軍事委主席
 
  「動乱は一カ月にもなり、老同志たちは心配している。
  発展には安定が必要で、決心すべきだ。
  ゴルバチョフ(ソ連共産党書記長)の訪中期間(15日~)
  天安門広場の秩序を保たねば、
  国際的イメージを守れない」

 ◇趙紫陽総書記

  「広範な学生会は事の重要性を理解しており、
  歓迎式で騒ぎを起こすことはないと思う。
  対話を通 じて解決したい」

 ◇鄧小平

  「動乱の根は単純ではない。
  ブルジョワ自由化分子もいる。
  われわれはプロレタリア独裁の原則を緩めず、
  西側式の多党制を拒絶する」

◎5月16日 
 政治局常務委員会にて。
 趙紫陽と李鵬の会話。

 ◇趙紫陽

  「学生のハンストが四日目に入った。
  彼らの要求の一つは
  4月26日の人民日報社説の修正であり、
  これに応じるべきだ」

 ◇李鵬首相

  「それは違う。
  社説の矛先は、学生運動を利用して騒ぎを拡大し
  共産党と社会主義に反対しようとする、
  ごく少数の下心を持つ連中に向けられている」

 ◇趙紫陽

  「デモ参加者がますます増えているのは
  『動乱』のレッテルが受け入れられないからだ」

 ◇李鵬
  
  「社説の重要部分は
  鄧小平同志の4月25日の談話であり、
  それを動かすことはできない」

◎5月17日午前 
 政治局常務委員会(鄧小平宅にて)。

 ◇李鵬

  「趙紫陽同志には
  今日の事態を招いた最大の責任がある。
  北朝鮮訪問中も4月30日の帰国後も、
  人民日報社説を支持していたのに、
  5月4日のアジア開銀総会の後、態度を変えた。
  いまだに彼らはわれわれの基本制度に
  反対してはいないなどと言っている」

 ◇姚依林副首相

  「趙紫陽同志が昨日、ゴルバチョフに
  『最高決定権は鄧小平にある』との秘密決議を話したのは
  責任を鄧小平同志に転嫁しようとするものだ」

 ◇趙紫陽
 
  「弁明させてほしい。
  アジア開銀での演説は外国の投資家を安心させる目的で、
  同席した楊尚昆、喬石、胡啓立同志らの感想も良かった。
  鄧小平同志の件は、
  これまでも外国の指導者に話してきたことだ」

 ◇鄧小平

  「趙紫陽同志、
  君の5月4日の演説は転換点だったな。
  以来、学生運動は悪くなる一方だ。
  われわれは当然、
  社会主義民主制度を建設しなければならないが、
  急いで事を進めるわけにはいかない。
  これが動乱でなくて何なんだ。
  事態が進めば、
  われわれはみんな軟禁されてしまうだろう。
  考えぬいた末、解放軍を入城させ、
  戒厳令を実施する結論に達した」

 ◇趙紫陽

  「私にとってそれは困難だ」

 ◇鄧小平

  「少数は多数に従え!」

◎5月17日夜
 政治局常務委員会(中南海)の会談内容。

 ◇趙紫陽

  「戒厳令を敷くべきかどうか」

 ◇李鵬

  「今朝の会議で鄧小平同志が決定している。
  私は賛成だ」
 
 (姚依林が賛成、趙紫陽、胡啓立が反対、
  喬石が中立の立場を表明)

 ◇楊尚昆国家主席

  「この結果を鄧小平同志や
  他の長老に報告し決めてもらおう」

 ◇趙紫陽

  「私の職務は今日で終わった。
  鄧小平同志らとの観点が違い、
  みんなに迷惑をかけた。辞職する」

 ◇楊尚昆

  「君の態度は正しくない。団結すべき時だ」

◎5月18日 
 八大長老らが会合。
 北京に戒厳令施行(20日)を決定。
 欠席した趙紫陽に非難集中。

◎5月27日 
 八大長老が鄧小平宅で会合。

 ◇鄧小平

  「子細に比較検討した結果、
  江沢民同志は合格だと考える。
  陳雲、李先念と私は
  江沢民を総書記にすることで一致したが、
  みんなの意見はどうか?」

  (王震国家副主席らが賛成発言、
  李瑞環天津市書記と宋平党中央組織部長を
  政治局常務委員に昇格させることも決まる)

◎6月2日
 政治局常務委員会と長老六人の会合。

 ◇李鵬

  「北京市党委員会と国家安全部の報告では、
  戒厳令施行後、今回の動乱を起こした学生らは
  計画的、組織的に天安門広場占拠の
  陰謀を立てていたことが分かった。
  米中央情報局(CIA)を含む米大使館員が
  学生らと接触しているほか、
  台湾の情報員も紛れ込んでいる。
  彼らの目的は共産党と社会主義の転覆だ」

 ◇王震

  「くそったれどもめ!
  軍を出して反革命分子をとっ捕まえろ」

 ◇鄧小平

  「動乱の背後には国際勢力が関与している。
  西側は人権がどうのと言っているが、
  アヘン戦争で中国を侵略して以来、
  中国人の人権をどんなに踏みにじってきたことか!」

 ◇李鵬

  「一刻も早く行動に移り、
  天安門広場から学生を一掃しなければいけない」

 ◇鄧小平

  「今晩、広場の一掃を開始することを提案する。
  二日以内に完了すればよい。
  学生らに広場から立ち去るよう説得し、
  彼らが拒絶したら、その結果 は彼らの責任だ」
 

以上です。

この後、6月3日午後から戒厳部隊が実力行使開始、
4日未明に天安門広場は制圧されました。

ここで補足しておきますが
当時の中国共産党は一種の集団指導体制で
この後の江沢民や胡錦涛の時と違って、
党総書記・軍事委主席・国家主席・首相などの職位は
一人の最高指導者が兼任する体制は取ってません。

さらに非公式な権威として
「八老体制」というものを作ってました。
これは鄧小平を中心とした八人の共産党の長老、
鄧小平・陳雲・李先念・彭真・鄧頴超・楊尚昆、
薄一波・王震によって構成されており、
党指導部に対するお目付役でした。

この集団体制は、
文革時に毛沢東に権力が集中し、
惨禍を招いたとの経験から
鄧小平が意図的に権力を分散させた結果です。
しかし、この天安門事件で
権力を分散をした結果、
速やかな対応ができなかったとの反省から、
また元の権力集中制に戻しています。

さて、上記の共産党幹部の言動を見ると、
実に生々しいものがあります。
武力制圧に傾く鄧小平。
それに反対する趙紫陽。
趙紫陽が失脚する過程がハッキリと分かります。

さらに、李鵬と鄧小平の発言の中に

 「米中央情報局(CIA)を含む米大使館員が
  学生らと接触しているほか、
  台湾の情報員も紛れ込んでいる」

 「動乱の背後には国際勢力が関与している。」

との言葉がありますが、
おそらく、これは事実でしょう。

米国のみならず、
他の西側諸国や台湾・ソ連などの諸国は
この天安門の民主派と一定の接触はもっていたでしょう。
特に一番の利害関係を持つ米国と台湾は
この運動を自国にとって有利な状況に
誘導しようとしていたでしょうね。

また、共産党幹部の中で
この事態を己の権力拡大に利用しようという動きも
当然の如くあったでしょうね。

文中でいろいろな幹部が
鄧小平の動きを支持する発言をしてますが、
これを奇貨として
自分を売り込む動きや打算があったでしょう。


さて、次に民主派の動きです。

あの事件が起こった時、
全世界は、

 民主派=善、純真な自由希求勢力

 共産党=悪

という図式で捉えていました。

そして、天安門において
数千人単位で学生や労働者が虐殺されたという情報が
流布していました。

しかし、それほど物事は
単純ではないことが分かってきました。

まず、虐殺された人数ですが、
諸説いろいろありまして正確なところは分かりません。
ただ事件直後に流れた数千人単位の死者説は
どうも誇張や風説が混ざっているようです。

虐殺が行われたとされる天安門広場は
事件当時に喧伝されたほど死者が出ておらず、
むしろ広場周辺の長安街で多くの死傷者が出たようです。

日本では「天安門広場での虐殺」が定説となってますが
それとは違う角度の意見を以下に記載しておきます。

あの時、天安門広場に最後まで残った西側マスコミは
スペインのTV局の記者でしたが
彼は後に「学生たちは安全に広場から退去し、
一人の死傷者も出なかった」と証拠のビデオを提出しました。

また、アメリカのABCテレビは事件後の6月27日夜に
「天安門の悲劇」という番組を放送しました。
この番組の中でABCの取材チームが撮った、
膨大なビデオを詳細に点検したところ、
天安門広場などでは、
中国軍兵士の銃口は群衆には向けられておらず、
もっと上方に向かって発射されていました。
このため、銃弾に当たって倒れたとみられる人は
だれ一人、ビデオには映っていなかったとのことです。

さらにアメリカの人権組織である
「アジア・ウォッチ」のメンバー1人が
最後まで学生と共に広場に残ってましたが
彼は後に香港紙に寄稿し、
「そこにはパニックを示すようなものはなく、
なにか虐殺が起こったことを示すような
微かな兆候さえもなかった」
と書いています。

これは当の学生運動のリーダー達も
事件2周年後の91年7月パリに集結して開催した、
「歴史的回顧と反趨セミナー」において、

 「天安門広場へ続く長安街では
 至るところで死傷者が出たが、
 広場内部では大量虐殺を見た学生たちはいなかった。」

との認識で一致しています。

正直、諸説が分かれていて、
「幻派」から「大虐殺派」までいる構造は
南京大虐殺と全く同じで、
私としてはどれを信じていいのか分かりません。

ただ、事件直後に世界的に流布した、
「数千人単位の死者」「手当たり次第の虐殺」説は
どうも無条件では
信じられるようなものではないということです。

まあ、当の中国共産党が
「死者は三百数十人」と発表してますから
それ以上であることは間違いないようですが・・。

次に、民主派の指導層ですが、
これも「民主化の理想を追求する善なる学生達」と
一括りにはできないようです。

あの学生運動のリーダーであった、
ウーアルカイシや柴玲は
今や海外の中国民主化組織の中では
完全に信望を失っています。

彼らが、事件直前に天安門を脱出し、
他の学生を見捨てて米国に亡命したというのも一因でしょうが、
彼ら指導層について調べてみると
いろいろな思惑が渦巻いており、
ドロドロしたものがあるようです。

事件当時、西側諸国では
民主化運動のリーダー達は
持ち上げられ、賞賛されましたが
実は学生側に一貫した指針と戦略がなく、
デモの打ち切りのタイミングも考慮せず、
その人間関係の軋轢が
内部抗争までに発展しかねない状況に置かれてました。

たとえばリーダーの柴玲ですが、
事件後、世界に対して流血の惨事を涙ながらに訴えましたが、
彼女は事件前、天安門広場において
西側メディアのインタビューに答え、

 「政府を追い詰めて人民を虐殺させなければ、
 民衆は目覚めない。
 だけれど、私は政府に殺されたくないので
 広場から逃げます」

と語っています。
この映像はしっかりと残っています。

結局、彼女の言葉通り
人民は虐殺され、柴玲は逃げたわけですが
私は彼女の発想というか戦略を
無条件で非難する気はありません。
冷徹に考えれば同意できる部分もあります。

あの「天安門の虐殺」後、
西側は中国に対して硬化し、
一斉に経済制裁を行います。
中国は冬の時代を迎えます。

この対中経済制裁網に対して、
日本が「中国を孤立化させるな」とのスローガンのもと、
媚中派の政治家や外務省が動き、
天皇の訪中を行い、制裁緩和を他の諸国に働きかけます。

また、米国は米国で
当時は日米の経済戦争が熾烈で
米国は本気で「覇権の危機」を感じ、
日本を叩こうとしてましたから、
これに対抗する意味での「中国」に注目していました。
また、中国市場の魅力にも惹かれていました。

結局、日米両国が徐々に制裁緩和の方向に動き始め、
馬鹿馬鹿しくなった当時のEC(欧州経済共同体)は
この動きを追認し、
西側諸国の経済制裁はなし崩しに崩れます。

あれから十数年が経ち、
EUの対中武器輸出緩和に対して、
日米両国が「中国の強大化につながる」と
猛反対していることは
大いなる皮肉と言えるでしょう。
EUにしてみれば
「日米は身勝手な連中だ」となるでしょうね。

あの天安門事件後に
西側諸国が経済制裁と締め付けを持続していれば
窮した中国共産党は倒れた可能性があります。

この意味において柴玲の

 「政府を追い詰めて人民を虐殺させなければ、
 民衆は目覚めない」

このセリフは
「虐殺」の宣伝効果を狙ったもので怜悧そのものですが、
実際に、事件の惨劇に震撼した西側諸国が
経済制裁に走ったわけで、
うなずける部分はあると思います。

天安門広場に集った100万の群衆を
あえて人柱に仕立て上げ、犠牲の血祭りとすることで
共産党を追いつめていく。
ただ、リーダーである自分は
こんなとこで死ぬわけにはいかないので
さっさと逃げますよと。
この非情さには思わず引いてしまいそうですが、
あの強大な中国共産党を倒すには
そのぐらいのシビアな感覚は必要なのかもしれません。


時は過ぎゆき
かの事件から16年の歳月が流れました。

もし、天安門事件が民主派の勝利に終わり、
その民主化要求が入れられた場合、
いったい中国はどうなったか?
これを想像してみるのも一興だと思います。

鄧小平はあの事件を「権力抗争」と捉え、
このまま放っておけば「我々が軟禁される」と言いましたが、
私は民主派が勝つ道は
共産党内の改革派と手を結ぶことしか、
無かったと思います。

体制外の勢力が体制を倒すことは
なかなか難しいことです。
自前の武器と組織を持ってないからです。

これを補う方法は、

1,体制内の一派と結ぶ

2,外国勢力を引き入れる

この2つです。

民主派の学生達は
2の米国の支援を期待していたのでしょうが、
中国のような大国に対して
陸続きでもない米国が
素手を突っ込んでいくのは困難なことです。
事実、米国は事件に対して
直接の介入は行いませんでした。
民主派を見捨てました。
彼らは偵察衛星で全てを見ていたんでしょうけど。

あの場合、残る選択肢の1、
「体制内の一派と結ぶ」
これ以外に無いわけです。
特に軍の支持を得ることが必要でした。

彼らがこれに行い、革命に成功し、
民主化を中国にもたらしたとしたら、
中国はバラ色になったでしょうか?
難しいところですね。

私は民主主義という制度を
万能の理想的な制度だと思ってません。
打ち出の小槌のような
何でもかなえてくれる制度だとは思ってません。
他の諸制度と比較して
ベターな制度だと思ってますが、
完全無比な制度だとは思ってません。

あの事件で民主派勢力が勝利した場合、
私は数年から十数年、
中国は混沌と秩序の破壊の時代を迎えたと思います。
新たな王者が登場するまで
かの国は全土暴乱の時を迎えたと思います。


さて、民主派を弾圧したことで
権力の座を維持した中国共産党ですが、
私はこの強権政党は
すでに歴史的役割を終えたと見ています。
かの党の役割とは「統一」と「秩序の回復」でした。
中国を統一し、軍閥割拠の分裂状態を終わらせ、
外国勢力の侵入を防ぐ。
これが彼らの歴史的役割でした。

新中国誕生から半世紀を経て
彼らの役割は終わりました。
市場経済の進展と資本主義化により
古びたマルクス主義の綱領を抱えている彼らは、
すでに時代から取り残された存在です。

この状況に対するには、
滅ぶか、自己変革をするか、
どちらかしかありません。
市場経済に対して中途半端に同化し、
完全なる自己変革を拒否する彼らは
時代の中から退場していくでしょうね。

天安門事件で彼らは民主派を鎮圧して
十数年、命を長らえましたが、
この状況は長くは続かないと思います。



六四天安門事件 - Wikipedia

現代中国ライブラリィ
 天安門事件(6・4事件、第2次天安門事件)


趙紫陽と現代中国:All About

天安門文書:張 良 (著)

インターネット行政調査新聞:腐敗横行の中国内部

89年天安門事件における「虐殺」説の再検討

天安門:THE GATE OF HEAVENLY PEACE

大紀元時報:六四天安門事件写真シリーズ(1)

combat.ch ! 天安門事件


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by misaki80sw | 2005-06-05 01:31 | 中国・台湾関連