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by misaki80sw

日本海海戦から百年・・完勝と世界史の転換

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対馬沖で海上慰霊祭 日本海海戦100年

 日露戦争(一九〇四-〇五年)の
 勝利を決定付けた日本海海戦から百年を迎えた二十七日、
 海戦の舞台となった長崎県対馬沖で海上慰霊祭が行われ、
 日露両国関係者ら約三百人が参加。
 海に献花するなどした。
 海上には地元の漁船約八十隻も集まり、
 隊列を組んで沖まで伴走した。
 また、神奈川県横須賀市でも関連の式典が行われた。
 
 海上慰霊祭は、対馬市や、地元の有志でつくる、
 「対馬・歴史顕彰事業推進委員会」(武末裕雄委員長)
 などで構成する実行委員会が主催。
 漁業関係者も有志として参加した。
 
 一方、神奈川県横須賀市ではこの日、
 ロシアのバルチック艦隊を撃破した記念艦、
 「三笠」の前で記念式典が行われた。
 日本海海戦百周年記念大会名誉会長の
 中曽根康弘元首相や
 ロシアのガルーチン駐日公使、
 米英の政府高官ら約七百人が出席。
 日露両国の国歌に続き、黙祷し、戦没者を追悼した。
 「三笠」は二十八日から二日間、無料開放する。

   (産経新聞)


明治37年(1904年)2月6日、
日露両国は戦端を開いた。
陸軍は満州の荒野で
ロシアの大軍と数度にわたる会戦を行い、
明治38年3月の奉天会戦において
ロシア軍に決定的な打撃を与え、
以後、戦線は膠着した。

この陸軍の補給線を守るべく、
日本海軍は黄海海戦でロシア太平洋艦隊を撃破した。

しかし、ロシアは欧州方面の艦艇を集め、
第二太平洋艦隊を編成、これを極東に送り込んだ。
これがバルチック艦隊である。

日本海軍は
大陸に派兵した陸軍を孤立させないためにも
バルチック艦隊を撃滅し、
海上補給線を維持する必要があった。
海軍に課せられたのは完璧なる勝利、
敵艦隊の撃滅であった。

世界各国はこの戦いの行く末を見つめていた。
大陸帝国のロシアが勝つか、海洋国家の日本が勝つか。
日本と同盟中の英国、日本寄りの姿勢を示す米国。
そしてロシアと同盟を結ぶフランスとドイツ。
さらに列強の下で呻吟していたアジア・アフリカ。
この戦争の帰趨は、極東に接近中のバルチック艦隊と
東郷平八郎大将率いる連合艦隊の戦闘に委ねられた。

明治38年(1905年)5月27日午前9時40分、
対馬海峡を哨戒中の哨戒艦信濃丸から
朝鮮南東岸の鎮海湾に停泊中の連合艦隊旗艦「三笠」に
「敵艦隊見ゆ」の無電が飛び込んだ。
ロシア・バルチック艦隊の来襲である。
 
三笠の連合艦隊参謀秋山真之中佐は
東京の海軍軍令部あてに1通の電文を送った。

  敵艦見ユトノ警報ニ接シ、
  連合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス
  本日天気晴朗ナレドモ波高シ

鎮海湾を発した艦隊は、
東郷平八郎大将直率の第一戦隊と
上村彦之丞中将の第二戦隊が単縦陣を組み、
対馬海峡隠岐島西方へと向かった。

日本側は戦艦4隻、装甲巡洋艦2隻、
一等巡洋艦6隻を中心とする91隻。
ロシア側は戦艦8隻、装甲巡洋艦3隻、
装甲海防艦3隻を中心とする38隻。

日本は小型の水雷挺までを含めた隻数であり、
海戦の主力たる戦艦の隻数はロシアに劣り、
世界各国の軍事関係者も
ロシアの勝利を予想した者が多かった。

13時39分、連合艦隊は敵主力を艦首方向に視認、
東郷大将は戦闘開始を命令。

13時55分、旗艦三笠はZ旗を掲揚。

  皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ
  各員一層奮励努力セヨ

14時05分、敵艦隊との距離8千メートル。
ここで東郷は取舵一杯を命令。
敵前における大回頭を開始した。
戦史に名高い「東郷ターン」である。

14時10分、敵との距離6千4百メートル、
回頭を終えた三笠は射撃を開始。

東郷は幕僚の薦めにも従わず、
装甲に囲まれた司令塔に入ることを断り、
三笠の吹きさらしの艦橋上にあって
泰然と眼前の敵艦隊を凝視しつづけていた。

この小柄な薩摩出身の老将は
幕末の争乱期、薩英戦争で初陣を飾り、
日本で最初の海戦となった阿波沖海戦では
砲手として幕府海軍と戦った。
彼はトラフォルガーにおけるネルソンの如く、
この海戦で死ぬつもりであった。

激烈な砲撃が両艦隊を交叉した。
戦艦同士がうなりをあげて砲撃し、
巨弾を相手の装甲にたたき込む。
海上には濛々たる黒煙があがり、
砲撃を食らった艦では死者の血が甲板を濡らした。

戦いは最初の30分で決まった。
ロシアの主力艦は皆、炎につつまれ、
ことに旗艦スワロフと戦艦オスラービアは
日本艦隊の砲弾が集中し、艦上は廃墟と化した。

東郷は日本艦隊の優速を生かして、
小刻みな変針を行うことで
常に敵の頭を押さえつけていた。
いわゆる「T字戦法」である。

当時、世界の軍艦は
攻撃力よりも防御力が優れており、
分厚い装甲を持った戦艦は容易に沈まぬと信じられていた。
しかし、15時10分、
戦艦オスラービアが大きく腹をさらして
海底に没していった。
19時3分には
ロシア艦隊二番艦アレクサンドルⅢ世も沈没。

19時10分、三笠は日没により射撃を中止。
翌日の戦闘に備え、鬱陵島を合流地点として
北進を開始した。

バルチック艦隊の損害は凄まじく、
戦闘組織としてはすでに崩壊状態に達しており、
各個艦がそれぞれの僚艦と共に、
ウラジオストックへの遁走を意図し、
バラバラに北走していた。

しかし、夜間に入ると
日本側の小型巡洋艦・水雷艇を中心とした水雷戦隊が
快速を利用して
落ち武者を狩るようにロシア艦を襲撃した。

翌28日、連合艦隊は鬱陵島の南方に集結。
9時30分、残存艦隊を発見。
ネボガトフ少将指揮下の小艦隊である。

急接近した連合艦隊にネボガトフは戦意を喪失。
全艦の砲撃を中止し、
機関を停止させて降伏を表明した。
ここに海戦は終結した。

日本側の損害は、水雷艇3隻の沈没のみ。
ロシア側は、38隻のうち、
沈没21隻、降伏・拿捕7隻、
中立国に逃げ込み武装解除されたもの7隻、
残り3隻の小艦艇のみが
ウラジオストック港に逃げ込んだ。

バルチック艦隊の司令長官、
ロジェストヴェンスキー中将は負傷し、
海上で捕虜となった。

世界中が騒然となった。
完璧なる勝利。
パーフェクトゲームの海戦。
そして世界史における白人優位の歴史に
ストップがかかった瞬間であった。
明治維新から、わずかに30年後の壮挙である。

海戦終結後、
ロジェストヴェンスキー中将は
佐世保の海軍病院に入院し、
それを東郷大将は見舞った。

東郷は言った。

  閣下、
  はるばるロシアの遠いところから
  回航して来られましたのに、
  武運は閣下に利あらず、ご奮戦の甲斐なく、
  非常な重傷を負われました。
  今日ここでお会い申すことについて
  心からご同情つかまつります

  われら武人はもとより
  祖国のために生命を賭けますが、
  私怨などあるべきはずがありませぬ。
  願わくば十二分にご療養くだされ、
  一日もはやくご全癒くだされることを祈ります。

ロジェストヴェンスキーは、

  私は閣下のごとき人に敗れたことで、
  わずかにみずからを慰めます。

と答えた。

いまだ武士道と騎士道の余韻の残る時代であった。



坂の上の雲:司馬 遼太郎 (著)

Z旗:日本海海戦

日本海海戦時の連合艦隊主力

日露戦争 - Wikipedia

日本海海戦 - Wikipedia

東郷平八郎 - Wikipedia
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by misaki80sw | 2005-05-29 01:23 | 日本(政治経済)