misakiのオールジャンル時事評論!


by misaki80sw

本日の雑談 2005/04/29


<昨日と今日の更新>

「人権擁護法」その7・・同和利権

日本+アジア諸国による海賊対策協定。


今日も雑談のみです。
珍しく歴史雑談でもします。


いや~、今日は暑かったですね~
しかも太陽はギンギンだし。
私は友人と二人で街中をうろうろと歩いていました。

ノドが乾いたので喫茶店に入り、
バニラアイスを賞味しつつ、
そこで二人でしみじみ話したのが、
「あの日を思い出すね」ってこと。


数年前の似たような暑い日に
二人は岐阜県関ヶ原町をほっつき歩いていました。

彼女は私と同じ九州の出身で、
私ほどじゃないけど同じ歴史小説好き。
そこに目を付けた私が
共に九州の実家に帰省がてら
関ヶ原に寄って戦場見聞でもしようと
嫌がる彼女を無理矢理同行させました。
だって一人じゃ寂しいもんね(笑)

当日は日本晴れの快晴で、
太陽光線ギラギラの中を
私はTシャツとジーンズの軽装にグラサンを引っかけて
関ヶ原を解説本を片手に執拗に歩きまわった。

あまりの私の熱心さに友人は音を上げて
「あんたは西軍の斥候か!」と言い放ち、
先に一人で岐阜の宿に帰ってしまった。

私は日の暮れるまで関ヶ原の山野を跋渉し、
各軍の陣地を見て回りました。

一番記憶に残っているのが
石田三成の本陣があった笹尾山です。
急な角度の砂利道を登り山頂に至ると、
そこから関ヶ原一帯が一望に見渡せた。

a0018138_0463321.gif


思ったよりも狭い盆地。
ここに東西両軍15万の兵力が参集したとは
とても思えない狭さ。
でも、現代人は車や電車の速度感覚が身に付いてるから、
狭く感じるのかもしれないね。

関ヶ原盆地を隔てて、
正面には毛利軍が空弁当を食っていたという南宮山があり、
右手には小早川秀秋の松尾山が見える。
この松尾山と三成本陣の間に
ズラリと西軍の主戦派諸将が陣を構えていた。

一方の東軍は
盆地のポッカリ空いた空間に重なるように陣を構え、
単に布陣図だけ見るならば
西軍に包囲されたようなかっこうとなっている。

南宮山の麓には家康の本陣があり、
彼は激戦の最中に士気の鼓舞のため
陣を盆地の中央に前進させた。

私は関ヶ原一帯を眺めつつ、
当時の情景を瞼の裏に想像していた。
すると背中にゾクリとした戦慄が走り、
その奇妙な感じは今でも憶えている。

三成としては
この決戦は予想外だったと思う。
彼は長期戦を意図していたと思う。

彼は美濃で東軍の西進を食い止めつつ、
畿内と西日本各地で東軍加担諸将の城を
片っ端から落とした後で、
畿内の豊富な生産力を背景にして長期戦を挑み、
家康を倒す構想だったと思う。

しかし、彼には誤算があって、

1,家康の西進が急だったこと

2,美濃の岐阜城があっさり陥落したこと。

これが彼の構想を狂わせた。

彼は会津の上杉家の戦力と敢闘精神を過大評価し、
家康の西進はまだまだ先のことと思っていた。
さらに岐阜城城主の織田秀信のヘタレぶりは
全く予想外だったと思う。

一方の家康は、この三成の構想を読み、
西軍諸将の通謀と
西軍総帥毛利輝元の大坂居座りを計算に入れ、
一挙に短期決戦を挑んできた。

彼は乱の長期化により、
生産力の低い東軍諸将の疲弊と
第三勢力が拡大し、
漁夫の利を奪われることを恐れていたと思う。

関ヶ原戦の前日、
家康は大垣城に留まる三成を引き出すため、
わざと「近江・大坂に急進する」との虚報を流し、
西軍を関ヶ原に誘引した。

私はたまに思うのです。
あの時、三成が家康の虚報に乗らずに
大垣に留まったらどうなったかと。
案外、長期戦になったんじゃないかな、と。

当時、伊勢の安濃津方面では
西軍一の勇将、立花宗茂が東軍の城を落とし、
関ヶ原に向けて急進中だった。
さらに畿内一帯と大坂城には
西軍の軍勢が数万単位で散らばっており、
これを糾合できれば相当な戦力になったでしょう。

だけど、家康の戦略眼の鋭さに
やっぱり最後は負けてしまうのかね。
私は西軍贔屓だけど、
家康の用兵の卓越さには賞賛を惜しまない。

な~んてことを
喫茶店で友人にしゃべっていたら、
「いい加減にせえよ」と言われてしまいました (^^;)



人間模様・関ヶ原/関ヶ原の戦い
[PR]
by misaki80sw | 2005-04-30 00:50 | 補欠ニュース