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by misaki80sw

「人権擁護法」その4・・「糾弾」という名の私刑


人権擁護法を考える緊急大会」に行ってきました。

その余韻が消えないうちに
人権擁護法の4を書いておきます。


雑誌「正論」5月号に
八木秀次氏の「人権擁護法の背後にあるもの」が
掲載されていた。

氏はこの中で
この法案を推進する部落解放同盟の狙いが、
「糾弾権」の法的保障であり、
公権力を背景に人権侵害者を糾弾する権利を
確保することであると説く。

では、この「糾弾権」とは何か?
部落解放同盟の言う「糾弾」とは何か?

1969年3月13日、
大阪市教職員組合東南支部の役員選挙が行われた。
この選挙で書記次長に立候補した木下浄教諭が
組合員たちに以下のような挨拶状を送った。

 「労働時間は守られていますか。
 自宅研修のため
 午後四時頃に学校を出ることができますか。
 仕事においまくられて勤務時間外の仕事を
 押しつけられていませんか。
 進学のことや、同和のことなどで、
 どうしても遅くなること、
 教育懇談会などで遅くなることは
 あきらめなければならないのでしょうか。
 また、どうしてもやりたい仕事も
 やめなければならないのでしょうか。

 教育正常化に
 名をかりたしめつけや管理がありませんか。
 越境・補習・同和など、
 どれをとりあげてもきわめて大事なことですが
 それにも名をかりて転勤・過員の問題や
 特設訪問や、研究会や、授業でのしめつけがみられて
 職場はますます苦しくなります。」


何の変哲もない文章。
仕事の多忙さと労働条件の改善を訴える文章。

ところがこの挨拶状は
解放同盟矢田支部に持ち込まれ、
「差別文書」と決めつけられた。

彼らの理屈はこうである。

 教師の苦しみ、困難さの原因が、
 「進学のことや、同和のこと」にすりかえられている。
 具体的には部落解放同盟の解放運動にこそ、
 教師の苦しみの根源があると結論付けられている。

 人民解放の闘いに水を差し、
 非難中傷し分裂させ、真の敵を不明にし、
 差別を温存させる。
 正に差別者以外の何者でもあるまい

どこをどう見たらそういう感想になるのか?
頭の中が被差別意識で一杯なんだろう。
ちょっとした言葉の端々に食らいつき、
被害妄想を増幅させる。

3月18日午後4時、
解放同盟は、木下氏と彼の推薦人の2人を
地区の集会所に呼びつけ、
長時間にわたって糾弾した。

 「頭をはり倒したいくらいや!」

 「竹槍でブスッとやるところや」

 「お前、それでも教師か、頭悪いな」

 「認めへんのやったら、今晩帰したらんぞ!」

木下氏は挨拶状の趣旨を何度も説明したが、
解放同盟は全く納得せず、
数時間に渡る詰問と脅迫の末に、
木下氏ら3人の教師は
これが差別的文書であったと認めさせられた。

本来、木下氏らを守るべきであった大阪市教組も、
解放同盟の言い分を一方的にのんで、

 「解放同盟矢田支部の糾弾は
 全面的に正しいものである」

として、挨拶状を差別文書と断定した。

さらに解放同盟が再度の糾弾集会を企画すると、
大阪市教組の幹部達は木下氏の推薦者らの家をまわり、
糾弾集会に参加するように強要した。

そして4月9日。
解放同盟大阪府連のメンバーらが
突然、矢田中学と加美中学を訪れ、
勤務中の、木下氏の推薦人の3人の教師、
岡野寛氏、金井清氏、玉石藤三郎氏を
無理矢理車に押し込んで連れ去り、
矢田市民館に連行した。

そこには、解放同盟メンバー150人と、
教組役員や矢田中学校・矢田小学校の教員80人、
市教育委員会の幹部らが待っており、
解放同盟・市教組・教育委員会の3者合同による、
陰惨な糾弾集会が始まった。

3人の教師は胸ぐらをつかまれ、イスを蹴飛ばされ、
数百人の徒党に囲まれ、罵倒され続けた。

 「差別者!」

 「馬鹿野郎!」

 「犬!」

 「差別者に対しては徹底的に糾弾する」

 「糾弾を受けた差別者で逃げおおせた者はない。
 差別者であることをすなおに認めて自己批判せよ、
 差別者は日本国中どこへ逃げても
 草の根をわけても探しだしてみせる。」

 「糾弾を受けてノイローゼになったり、
 社会的に廃人になることもあるぞ。
 そう覚悟しとけ」

 「お前らいつまでたったら白状するのや、
 お前らは骨のある差別者や。
 ともかく徹底的に
 明日でも明後日でも続いて糾弾する」

 「お前達が認めなければ
 女房・子供をここに連れてきて
 嫁はんに言わさしたるぞ」

行方を案じた家族が弁護士に相談し、
警察が事実確認の電話を入れるまで糾弾は続いた。
3人が解放されたのは翌10日の午前2時。
実に10時間前後に及ぶ陰惨な糾弾集会であった。

関係教師に対する糾弾はこの後もエスカレートし
学校で勤務する教師らに対して
解放同盟側は生徒を扇動し、
運動場に引っ張り出し、朝礼台に立たせて糾弾、
生徒の面前で晒し者にした。

また、教師らの自宅に押しかけ、
近所に脅迫のビラをまき、
近隣住民に、

 「毎日来るぞ。
 2,3日したら宣伝車を入れるぞ」

と脅迫を加えた。

大阪市教組は、これらの教師に対して、
差別も認めず、自己批判もしなかったと理由で
全員の組合員としての権利停止処分を言い渡した。

さらに、大阪市教育委員会は解放同盟に従い、
木下・岡野・玉石教諭らに
大阪市教育研修所での長期無期限の研修命令を出した。
研修所で物置として使っていた狭い部屋で
2名の指導主事の監視のもと、
毎日、自習とレポートを書かされた。

その後、教育委員会は
関係教師全てを強制異動させ、
8年間に及ぶ「研修」を強要し続けた。

大阪市は、
「市政だより」100万枚を市内に配布して
木下氏の挨拶状を「差別文書」と規定した。

マスコミも解放同盟に従った。
朝日新聞は特集を組み、
解放同盟による暴力や脅迫行為には何も触れず、
解放同盟側の言い分をそっくりそのまま掲載した。

これに対して教師らは
刑事と民事の両方で訴訟を起こした。

1975年6月3日、
矢田事件刑事裁判の1審判決が大阪地裁で言い渡された。

  「木下挨拶状は差別的であり、
  被告人の行為は刑事罰を科すほどではない」

  「差別というものに対する法的救済には、
  一定の限界があり、その範囲が極めて狭く、
  多くの場合泣き寝入りとなっている現状に照らすと、
  差別に対する糾弾ということも、
  その手段、その方法が
  相当と認められる限度をこえないものである限り、
  社会的に認められて然るべきものである」

と無罪が宣告された。

この結果に解放同盟は、
「糾弾権が裁判所に認められた」と言いはやし、
糾弾闘争を強化した。

しかし、1979年10月30日、
矢田事件民事裁判(配転取り消し請求)の1審で、
大阪地裁が

 「木下挨拶状は、労働条件の改善を訴えるもので、
 差別性はない」

 「特定の思想なり運動方針に固執するものが、
 右のような考えを採用するときは、
 容易に反対意見を封ずる手段として利用され、
 同和問題の解決に対する、
 自由な批判・討論が不活発となり、
 右問題に対する開かれた自由な雰囲気がなくなって、
 ついには一定の考え、思想が独善に落ち込み、
 反対の理論ないし思想の存在、
 更にはその考えや思想に同調する人々の
 存在をも許さないという結果に陥ることになる」

という判断を示した。

さらに1981年3月、
矢田事件刑事2審の大阪高裁は、

 「木下挨拶状は差別助長につながるが、
 被告らの監禁行為は限度を超えており、
 処罰に値する」

と逆転有罪判決を下した。
解放同盟矢田支部長は懲役3月、執行猶予1年。

そして1982年3月、
最高裁が矢田事件刑事2審の判決を支持。
被告らの有罪が確定し、
解放同盟は訴訟に敗北した。

解放同盟は今でも
上記1975年6月の大阪地裁判決を錦の御旗としている。
即ち、自らの糾弾行為が法的に認められたと主張している。
この判決の罪は大きい。

しかし、1989年8月、
法務省人権擁護局は

  確認・糾弾会は
  同和問題の啓発に適さないと言わざるをえない。
  
との通達を出して、
解放同盟の「糾弾権」なるものを否定した。

解放同盟はこの通達の取り消しに
今でも躍起となっており、
今回の人権擁護法を推進する際に
彼らが関係国会議員に送った、
「『人権侵害救済に関する法律』の早期制定と
法案充実に関する要請と申し入れ書」
という長ったらしい名前の文書の中には

  1989年8月4日付けで
  法務省人権擁護局総務課長名で
  法務省人権擁護部長、地方法務局長宛に出された、
  『確認・糾弾について(通知)』
  (法務省権管第280号)の通達は、
  廃棄していただきたい。

と書いてある。

「この通達さえなければ・・」って
思ってるんでしょうね。


さて、この解放同盟の狂ったような糾弾と脅迫。
この背景にあるものは「朝田理論」と呼ばれるもの。
部落解放同盟朝田委員長の理論。

即ち、

  日常、部落に生起する問題で
  部落にとって、部落民に不利益な問題は
  すべて差別。

  部落民に対する社会意識としての差別観念は、
  客観的には空気を吸うように
  一般大衆の意識のなかに入りこんでいる。

自分らにとって不利な問題は全て差別問題。
自分らに不利益なことを言う者は
全て「差別者」であり「差別発言」。

つまり、誰でも差別者に
仕立て上げることが出来る。

「矢田事件」当時、
各地の解放同盟支部は朝田理論を下敷きに、
この事件を「矢田教育差別問題」と称して、
これを俎上にあげて、
公的機関や各種団体に踏み絵を迫った。

政党・労組・教育委員会。
矢田問題での解放同盟側の言い分を飲むか否かの
踏み絵を迫ることにより、
これらの団体を自己の影響下におこうとし、
暴力と脅迫を恐れた各団体は
唯々諾々と解放同盟に従った。

同和対策事業が
法的根拠のもとで始まるのが1969年。
それ以前の解放同盟による暴力、不当介入事件の特徴は、
言論や表現に対する脅迫的な糾弾が中心であった。
  
同和対策が始まると糾弾闘争の矛先は
行政や教育、議会等に向いた。

◇徳島県小松島市議会での糾弾事件

◇吹田市長宅の包囲事件

◇大阪府八尾市議斉藤氏の市議会除名事件

◇大阪市議会から共産党議員の除名を求める強圧事件

◇大阪府羽曳野市長監禁事件

彼らはこの種の圧力と脅迫を
公的機関や地方政治家、各種団体に加えることにより、
自己の勢力の拡大と影響力の浸透、
さらには同和対策事業での利権の確保を狙っていた。

俗に言う「窓口一本化」と呼ばれるもので、
自治体が行う同和事業は
全て解放同盟が窓口となるというもの。
結果、大阪では府と市が解放同盟に
事実上、同和事業を委託するという形を取った。
全面降伏である。


鋭敏な被害者意識。
糾弾権の正当化。
そして、その後の個人・公的機関、
各種団体に対する圧力と脅迫。
自勢力の拡大と行政への浸透。
そして同和利権の確保。
これは皆、一本の道でつながっている。

これを国家単位でやろうとしているのが
今回の「人権擁護法」。

解放同盟の歴史は糾弾の歴史。
彼らはその延長線上に、
国家の取り込みと
国権を背景にした「糾弾」を構想している。

法を背景に「糾弾集会」という暴力行為を正当化し、
この私刑集会によって
自らに不利益を与える者を人権の名の下に屈服させる。

この流れを許せば、
矢田事件の如き言いがかりと暴力行為が
国法の名で全国各地で行われるようになるでしょう。



部落問題 - Wikipedia

人権関連法案突然の再浮上:仕掛けは解放同盟

部落解放同盟犯罪史

エセ同和行為の源流

TBS筑紫キャスター「屠殺場」発言事件

同和利権の真相1:宝島社文庫


人権擁護法案を危惧する国民協議会
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サルでも分かる?人権擁護法案


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「人権擁護法」その1・・天下の雑法。
by misaki80sw | 2005-04-05 12:09 | 人権擁護法